こどもを叱るということ
今日は教会学校のこどもたち・親達と近所のボーリング場へ。外に出かけるということでこども達は朝から浮き足立っている。お昼を食べようとして、ちょっと
した事件が起きた。小学生のこどものひとりが、母親にだだをこねている。直前に、いつもは一緒に仲良く遊んでいる仲間と離れ、ひとりでいたのを見ていたの
で、どうやらまた場をしきろうとして仲間はずれにされたことをすねているのだ、親に甘えたいのだと見当をつけた。ちょっと母親との言い争いを見守っていた
のだが、弁当のおかずをぼろぼろ床にこぼすに及んで見かねて大声で叱り飛ばした。
自分自身の親の理不尽な扱いに納得がいかなかったから、ボーイスカウトのリーダー時代も、あるいは教会学校の教師をやっていても、考えながら、こどもと接
するときはこうあろうという姿を思い描きながら話そうとしてきたが、なかなか思うようにはいかないもの。怒るのではなく、叱るのだということ、なぜ叱られ
るのかをこどもに納得させることを実現しようとしても、やはり毎日こどもと接しているわけではないからなかなか実際にやってみると、後から考えてあそこが
不十分だったと思うことも多い。
一方で、自分の価値観を見つけだすという意義
があることに気付いた。前回やはりこどもに声を荒げたのは、こどもが別のこどもを後ろから蹴ったときだった。今日は食べ物をいらいらしてこぼすということ
に対してである。食べ物を粗末にするなとか、卑怯なことをするなとか、弱いものいじめをするなとかいったあたりが、どうやら私の譲れない価値観であるらし
い。
だが、なぜ叱られるかをちゃんとこどもが納得できるよう話さなければ、結
局私と父母との関係と同じである。おとなのちからでこどもの心をねじふせても、心の奥底からの納得でなければ表面的には従ったように見えても親・指導者の
尊厳は失われる。こどもがそんな行動をとった理由を充分聞いてやれたか、それはこどものそのときの感情を前提にしてなるほどと思えるか(なるほどと思えな
いときは、たいていこどもが自分に都合のいいように意識的に、あるいは無意識的にストーリーを書き換えている)、そのあたりは今日は若干不十分だっただろ
う。その上でおとなとしての自分がどう思ったかをこどもに伝えたか、こどもの、自分の行動についての評価反省を自分で気付かせられたか、この点については
今日は充分ではなかったろう。感情のたかぶりがおさまってきたことだけを確認し、自分の行動の評価をさせてやる段階を軽くなぞるだけだったように思う。
一方で親の喜ぶ行動ばかりをしようというこどももいる。1人でいるときと、おとなや友達と一緒にいるときでは表情の違うこどもがいる。こどもらしさ(自分の感情を素直に表せるということ)を心の奥にしまいこませると、いつかそのエネルギーが噴出する。
こどもを叱るのは 難しい。