Y先生への手紙

Y先生:

メールありがとうございました。お返事が遅くなって申し訳ありません。ハードディスクの入れ替え作業をしていたんですが,環境復元にてこずりました。でも静かなタイプに変えて,これで図書館でもどこでも持ち込んで,まわりに気兼ねせず使えるようになりました。

Iさんの件,了解です。こちらこそ勝手に気をまわして申し訳ありません。Windows 環境での中国語 IT 活用もいろいろ研究していきたいと想っていますので、よろしくおねがいします。

青年キャンプの件、青年が神様とのつながりを確認できないからこその群れ好みという観察については,私も同意見です。ただまぁ,自分が二十歳くらいのとき に何かはっきりした人生のビジョンを持っていたかとか、しっかりした確信を持っていたかといわれれば、とてもそんなことはいえないので、彼等が頼りなく思えても、それはそれでいいんじゃないか,いやむしろ,大会スタッフなぞ引き受けたことの無い当時の自分よりしっかりしているじゃないかと感心しました。O 先生と一緒にいらっしゃるんでしょうか。きっと青年達にとっても恵み深い経験となることでしょう。

多様性と協調・共生、おっしゃる通り日本の伝統社会の価値観とはなかなか相容れないものですね。この概念を支えるための自立した個人という考え方,これがキリスト教の神・人の一対一の関係という考え方とよくマッチしていると思います。そういう意味ではキリスト教的信仰はこれから伸びていく可能性があるとも 言えると思っています。

社会が大きく変わってゆくとき,その流れを敏感に感じる,あるいは先導する人たちは始めのうちはごく少数で,多くの人たちは流されるか,あえて逆らうかし てきました。明治維新でも,宗教改革でも,産業革命でも。日本は,IT革命+経済成熟+国際化+少子高齢化など,百年に一度の大変化の時代を迎えていま す。Y先生が,あるいは教会が社会に対して証詞・警鐘ならすことを続けるのは,言い換えれば預言者的な役割をまさに果たされているのですね。今はなかなか 手ごたえがないかも知れませんけれど,あとから振り返ればやはり神様の導きだったとより深く思えるだろうと。

とりとめない話しのまたさらに余談ですが...先生の研究テーマの話を伺って連想したことを....

これから私がしてみたいなと思うのは経営学や心理学から見た教会・聖書の研究と,その成果の応用実践です。ずいぶん聖書や信仰に遠いなとお思いになるかも しれませんが,最近の経営学の研究対象は,営利会社だけでなく広義のNPOなどの運営も,共通項が多いということで含まれていますし,心理学も信仰も心を 扱うという点では共通していますよね。経営・心理というと競争相手のようで,あるいはあまりにこの世的な視点ということでなかなか教会社会の中で公的には 取り上げにくいだろうから,個人的な研究課題に取り上げてみたいなと思っています。とはいえ仲間がいればいいんですが,部会教師会とか,信徒研修会とかで (こそっと)話しあえないかしらんなどと思ってもみたり。

たとえば,私が思う日本の教会(といっても知っている教会はごくわずかですが)の衰退傾向に対する一つの解決策は,P重視のよいリーダーの出現かなと考えています。
リーダーシップ論の一つにPM理論というものがあります。PM理論というのはリーダーシップに二つの軸があって,一つは集団の成果 (Performance)を重視する軸,もう一つは集団の維持(Maintainance)を重視する軸があるという考え方です。

教会は昔からM重視の雰囲気です。大概の教会は,想像ですがM的な雰囲気はあって,それが一般の方から見れば魅力の一つなのだと思います。教会社会は神の国の一面ということで,これは教会の基礎的な力とも言えますね。

一方,霊的にもこの世的にも成長している教会は,それに加えてP的なリーダーがいるか,あるいは教会の使命を共有した会員達の活発な自主的活動があるのではないかという仮説を持っています。

主に高齢化と自然離散で常時出席会員数が数人というような教会で活発な自主的活動などと言い出すとすぐに息切れしてしまいそうなので,あえて人工的なP リーダーも必要なんじゃないかと思っています。たとえば教会の使命は何か考えていきたいという提案ですとか,関係者をまきこんで共同行事を積極的に行って いくことなどです。

しかし一方では,教会でP重視のリーダーというのもあまりにも世俗的だという意識もありますので,自主的な活動が活発になる教会らしい方法はないものかとも考えています。

PM理論では,リーダーがP重視でなくても,集団参加者が集団の使命を自覚して自発的に行動していれば,成果が多いといっています。

良い例がY教会だと思っています。Y教会では全員参加型の活発な活動をしていました。食事の準備でも,ちらしくばりでも出来る人はだいたい全員が自発的に 手伝いますし,全員になにがしか役割がありました。活発でない教会は違います。役割は固定的で,それで手いっぱいだからお互いに手伝いあうことはするけれ ども何かしら集団ごと(壮年女子・壮年男子・青年)でばらばらという感じです。

ただ,Y教会は教会のミッションがはっきりしていたということであれば,セオリーにあてはまってすっきるするのですが,私が見るにはっきりしたミッションがあったともいいきれない。だから活発でない教会でミッションを打ち出したとしても,うまく行

くだろうかという疑問はあります。

とはいえ,証詞の機会,日々の話し合いや全員参加型の共同作業が
Y教会では非常に度々ありましたので,暗黙的なミッションがおそらく
共有されていたのだろうなと思います。

社会の高齢化・少子化,経済の成熟化によって,教会が今まで通りの活動をしていても,潜在的な求道者の人たちへの証詞が届く度合いは減っていくのではと思います。一方で,心の時代と言われるように,自覚・無自覚に関わらず,魂の救いを求める人は少なくないとも思います。

義務感からでなく,見守られている喜びから自発的にそれを伝えていくことが前提ですけれど,あるものは何でも使っていきたいです。でもこんなことを公に言ったら,おそらくすごく反発や教育的指導を受けるでしょうけれど...。

余談に過ぎました。暑い日が続きますが,ご自愛ください。お守りとお導きが更にありますよう。

2002年8月15日 うおの