[読書]これからの「正義」の話をしよう
2010年10月の読書会の課題本はこれからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学。岡田斗司夫氏を迎えての会だった。結論からいうと,よく整理され,初心者にもわかりやすく構成された本であり,引き込まれるものがある一方で,自由・平等を謳歌している日本社会で育っていると気が付きにくい,国家からの自由,国家への自由といった,つい最近ようやく実現し,かつ,関係の深い近隣の国々ではいまだ模索している大事なことにより踏み込んでほしかったというもどかしさと,価値観が多様化する中で各自の判断基準を曲げられないのだから,コミュニティの合意形成・意思決定のルールや手順を定め,守るしか,対処方法はないのではという疑問について何かしらヒントを得られるかなと思って読んでくと肩透かしを食うという,ものたりなさもあわせ持つ本だ。
●「正義」を考える
日本社会で暮らしていると,「正義」なんて考え,議論する機会は,めったにない。重要なのは,みんながどう感じ,どう考えているかをつかむ,つまり空気を読むことが重要であって,個人個人がどう考えるかは,法学部の学生や司法関係者でもない限り,あまりお目にかからない。旧共通一次世代なので,高校時代は社会科,例えば日本史や世界史,倫理社会の科目でずいぶん級友と,正義とは何か,どう実現するのかといったことを話したが,正面きってそんな話をしたのはせいぜい高校2年までで,あとは,中国留学から帰国した直後,天安門事件が起き,まわりの同級生が真剣に隣国の様子を議論していたのを横目でみていた程度。日本人の知人とそうしたことを話すのは,せいぜい飲み屋での政治談義くらいだったかと思う。本来なら,政治こそこうした論議を必要とする分野なのだろうが。
飲み屋の政治談義やブログ,ツイッター系発言の多くは,事実を踏まえていなかったり,論理の飛躍があったり,感情論だったり。海外に出張したり旅行したりするとちょこちょこそんな話もするのだが,日本ではせいぜい中国系の知人と日中関係を話し込む時くらいしか,社会のあり方,政治の判断基準を論理的に話すことはない。
●充実感と物足りなさと
本の印象は,NHKの「白熱教室」で報じられていた講義と同じく,構成がよく練られているなという印象だ。具体的な事例を引きながら,意見を募る。様々な発言が出てくると,教授が持つフレームワークの中で整理し,その意見を要約したり,別の表現で言い換える。そうすることで,学生,聴講生,読者は,知らず知らずのうちに,そのフレームワークに沿った検討ができる。「白熱教室」では聴講者から,鋭い意見が次々出てくるようにみえるが,これはひとつにはアメリカという主張する文化の国,さらにはハーバードという優秀な学生が集まる場での開催ということもあるが,見逃せないのは,サンデル教授が論点をさりげなく引っ張り出したり暗示しているという芸のうまさだ。この本には,検討が積み重ねられた講義準備の重みが詰まっている。
一方で,東洋社会に所属する者としては物足りなさも覚えた。コミュニタリアニズムがなぜ注目を浴びているのか,なぜコミュニタリアニズムや共通善が自由・平等や人格といったものと同じ土俵で並び立つのか,今ひとつこの本ではわかりにくい。そもそも「幸福・自由・美徳」という論の立て方には,どうしても違和感を覚える。コミュニティ共通の美徳を追い求めようという提案そのものが,多元化し,交錯する価値観の違いを人間集団の中で実現できるかというと,根源的にムリなのではないかと思う。例えば自然に囲まれた隠遁生活について,東洋社会で暮らしている人ならば誰かがそんな生活をし始めたときいて違和感を持つ人がそれほど多いとは思えないが,欧米系の人々となると,理解は得られるだろうが,共感とか,憧憬とまではいきにくいのではないか。
所有権とか,個人・人格,政府対国民といった,境界のはっきりした個人とそれ以外という考えに基づく自由・平等を獲得していった西欧社会を前提とするのではなく,所属集団を人格の一部ととらえがちな東洋社会からの視点や,個人主義を突き詰めた視点,つまり,正義の基準は人によって違うことを認め合わなけれなならない時代,合意できるのはせいぜい,暴力を使わないことと,合意の手順を決めることの二つくらいではないのか。ロールズが提唱した公正としての正義の論は,それに耐えぬく力を持っているように見え,コミュニタリアニズムよりも説得力があるように思える。