次亜塩素酸水について
次亜塩素酸水を噴霧してコロナウイルス対策をしようという話が一時期頻繁にありました。NHKテレビなどで外出規制が解除された後に出入り口に閉鎖空間を設けて次亜塩素酸水を空間噴霧しているとして来客数を伸ばしている事業者が取り上げられたという話も聞きました。結論から言えば,次亜塩素酸の空間噴霧に効果はほとんどなく,かえって害をもたらす可能性があります。
次亜塩素酸水とは
次亜塩素酸水は,塩(NaCl)や塩酸(HCl)を水に入れて電気分解し,塩素イオン(Cl-)の力で水を低pHにしている電解水です。最終的に食品に残らないことが条件ですが,次亜塩素酸水は随分以前に食品添加物として指定されています。(指定時の参考資料)
食品工業での次亜塩素酸水の使われ方
次亜塩素酸水は,食品加工の現場では,加工中の材料や食品の表面に付着してる汚れを落としたり,微生物やウイルスを除菌する(要は微生物やウイルスを洗い流す)目的で使われています。成分表示上は殺菌料と書かれますが,水道水とあまりかわらない感覚で使い,殺菌を期待して使ったりはしません。
食品工業でいう殺菌
食品工業でいう殺菌は,商業的殺菌です。殺菌といっても,医療や微生物検査などで必要とされる滅菌(微生物やウイルスの完全死滅・除去)とは違い,すべての種類の微生物やウイルスがいない状態を作り出しているわけではありません。加圧加熱(いわゆるレトルト)殺菌や,加熱殺菌などの方法で,食中毒の原因となる微生物やウイルスを一定の割合で死滅・不活化させることいいます。殺菌の後,残っているかもしれない有害微生物が繁殖しない条件(例:酸素がない,pHが◎◎以下であるなど)の組み合わせのもとで保存・流通させることで,食中毒の発生を防ぎます。
食中毒の原因菌が繁殖しない条件を食品自らが備えているので,本格的な殺菌をしない場合もあります。例えばウスターソースやお酢,干物など,かなりpHが高い・低いものや,塩分濃度・糖度が高かったり乾燥してあって水分含量が低い---正確には自由水がほとんど含まれていない水分活性が低い---食品は,主な食中毒の原因となる微生物がこうした条件のもとでは繁殖しないので,大掛かりな殺菌はしません。
つくりたての次亜塩素酸水の力
次亜塩素酸水が今回の新型コロナウイルスを不活化させる力があるとの実験結果が報道されています。おそらく,つくりたての次亜塩素酸水を直接ウイルスにふりかけたりすれば,タンパク質でできたウイルスの外殻がこわれて不活化するのでしょう。たしかに,つくりたての次亜塩素酸水は,お酢などと同じく低pH,ですので,タンパク質を変性させる力はありそうです。できたての次亜塩素酸水は刺激臭があります。目や鼻・喉などの粘膜に付着すればかゆみや痛み,場合によっては炎症を起こす心配もあるでしょう。
余談ですが,かつて,同室で分析作業をしていた人が塩酸水溶液を加熱していて誤って沸騰させてしまい,白煙が立ち込めたところに出くわしたことがあります。消火しようと部屋に飛び込んだのですが,すぐ咳き込んで何もできませんでした。その場にいた別の人が口を布で覆って火を消し,事なきを得ましたが,苦い思い出です。
密封せずおいてある次亜塩素酸水なるもの
次亜塩素酸水の効力は,塩素イオンが生み出します。ところが,水中の塩素イオンは,密封していない環境では塩素としてすぐに揮発していきます。つまり,つくってすぐ密封せずにおいてある次亜塩素酸水なるものは,単なる水です。水にウイルスを不活化させる力はありません。ですので,よく除菌用などという名目でおいてあるプッシュポンプ式ボトルに入っている次亜塩素酸水という水は,ウイルスの除菌には役立ちません。
役立たないどころか,有害な場合もあります。というのは,塩素イオンが抜けた水は,微生物の繁殖の場となりえます。除菌するつもりで微生物を手や体にふりかけていたなんてこともありうるわけです。
霧状に空間噴霧される次亜塩素酸水
前述の通り,塩素イオンは容易に塩素となって揮発します。霧状にした次亜塩素酸水は表面積が増えますので,容器に詰めてある状態よりさらに速く,塩素イオンが抜けていきます。つまり,霧状に次亜塩素酸水を空間に噴霧してその霧がただよっているとしても,それは単なる水蒸気です。
一方,抜けた塩素は気体の塩素ガスになります。気体は自然に分散していきますが,ある程度閉鎖された空間なら,しばらくは残存しているでしょう。比重が2.49と重いので,足元をただよう感じです。また,塩素ガスは反応性の強い物質です。濃度の高い塩素ガスをウイルスに吹きかければ,これまたタンパク質が不活化するでしょう。気体の塩素分子がたまたまウイルスと出会えば不活化につながるかもしれません。床や地面に付着してるウイルスがいればですが,その出会いの確率は極めて低いです。なにしろ,もともと次亜塩素酸水に含まれていた有効塩素の量は,1kgあたり数十mg程度(つまり濃度でいうと数十ppm)ですから。
仮に次亜塩素酸水を狭い密封空間に噴霧して霧あるいは空間の塩素濃度が結構高い状態(プールで塩素臭が強い状態のようなもの)をつくれれば,その空間にいるウイルスの不活化にはつながるでしょう。塩素ガスの濃度が濃いということは,その空間での塩素ガスとウイルスの出会いの確率が高くなるからです。
ですが,その場合は塩素ガスによって人間に健康被害が出ます。人間にとって塩素ガスは猛毒のガスなのです。
現実としては,空間噴霧している場所は完全密封はしていないでしょうし,人の出入りによる空気の流れもあるでしょう。塩素自体は少量でもかなり特有の刺激臭がしますので,塩素臭さがないかぎり,塩素もその空間の外へ散っていると思って良いでしょう。散ってしまっているということは,その空間でウイルスの不活化に役立たないことになりますが。
また,湿度が高い空間は,雑菌が繁殖する場となります。かつて,24時間入れるお風呂が流行りましたが,レジオネラ菌という微生物が繁殖して健康被害をもたらす事故が頻発しました。水分は多くの微生物にとって,繁殖の材料となります。病原微生物が次亜塩素酸水を噴霧している空間に入り込めば,それが繁殖して人間に接触する確率が高くなるわけです。
いずれにせよ,次亜塩素酸の空間噴霧は意味がなく,かえって危険な場合もありうるということになります。
現実的な空間除菌の手段
現実的な空間除菌の方法もあるにはあります。除菌フィルターを使って清浄な空気で満たすいわゆるクリーンルーム,紫外線やオゾンを使う,あるいはその組み合わせです。
もっとも,紫外線やオゾンを使う方法は,塩素ガスの場合と同じく,その場に人が長くとどまることは危険です。食品工場ではライン稼働後の人がいない時間帯に行います。オゾンは気体として空間の隅々に行き渡るのですが,紫外線は影となった部分での殺菌はできません。
また,除菌フィルターによる方法は,設備に多額の投資が必要であり,除菌状態を得るまでの時間も長いので,大量生産する飲料の非加熱充填工程など限られた場所でしか使いません。
結語
空間噴霧や空間除菌を提唱している人たちは,ある程度有効塩素濃度が高い次亜塩素酸水によるウイルスの不活化効果をもって次亜塩素酸水が有効だと主張しています。つくりたて,あるいは密封状態からとりだした直後の次亜塩素酸水であればそのとおりですが,上述の通り,空間噴霧したり,密封式ではない容器に入れられた次亜塩素酸水にはあまり,あるいはまったく効果を期待できません。また,有効塩素濃度が低くなった次亜塩素酸水は雑菌が繁殖する場ともなる可能性があるため,かえってそれによる健康被害の危険もあることを忘れてはなりません。