(二回目)
日本人は自信を失っているようです。近年は国や国民に対する自虐的・ 無力感あふれる自己評価を度々見聞きしますが,これがイタリアだとそうではないなという実感があります。尤も,自信を持たせようという国内の言論リーダ (?)の論調はことに歴史認識に論点を絞りがちで,出発点の事実認定に胡散臭いものを感じるのか,大勢の同意を得られていないですね。
現時点で経済力も文化もそれほど自虐的になる必要はないくらいの蓄積が日本にはありますから,要はどれだけ人々が自信を取り戻せるか+内外から見て理解され得る仕組みを整えうるかという2つがリーダたる人たちの課題ではないでしょうか。
私なりの意見としては,道は2つ,キリスト教文化圏に見られる個のアイデンティティの確立という道,あるいはアイデンティティの融合するコミュニティの再生。
どうも公私混同・個の境界をやたら広げる政界人・官界人・財界人・市民を見ていると,後者はかなわんなぁ,でもこれを改革するのは大変だなぁと感じます。ことにアイデンティティが個人以上に広がっている現状を変えるのは,仏教や神道の考えに根ざす文化を持つ日本ではやってしまっていいのか,不安になることもあります。これからは自己責任の時代だと喧伝するのはよいですが,地域コミュニティも職場コミュニティも崩壊しているのに,それを再生したり代替手段を用意したりせぬままに個人に責任をおっかぶせるには,あまりに日本人のアイデンティティは一般的に無垢・無防備・無知ではないかと。
まぁ時代は前者に向かっているようですが,心の支えに適当な候補が今は見失われていて,このままつきすすんでいくのは前述のとおり危険だという気がしています。これを,カウンセリングマインドを持つ人たちの 一般化という形で支えるのか,あるいは新しい宗教心が役割を担うのか,はたまた個々人が自己満足を得られる有象無象な対象の発見を援助する形で実現するのか... 今だ混沌としていますね。
こういったことを,誰が変えるのか,どういう形に変えるのか。あるいはこのまま衰退を黙って見つめてゆくのか。大変興味のあるとこ ろです。
ボランティアのネットワークや,ネット社会に関わっていて,傍観者を決め込まないで自ら責任を持って道を切り開いてゆこうとする人たちがいるのを知ると,日本および日本人はそんなに捨てたものではないな,という思いがしてますが。